沖縄の伝統である三線を88歳の現役で継承している銘苅春政さん。
現代の三線職人界でナンバーワンと評され、三線奏者にとって銘苅さんの作る三線で演奏することが憧れになっています。
機械に頼らないワザはどのように培われてきたのか?
実演家として県指定無形文化財保持者でもある銘苅さんは、どのような人生を歩んできたのか調べてみました。
銘苅春政のプロフィール
- 名前:銘苅春政(めかるはるまさ)
- 出生:1934年(昭和9年)8月10日 88歳
- 出生地:沖縄県南城市
- 職業:三線職人・三線の実演家・銘苅三味線店の経営者
沖縄県工芸士認定者・胡弓 県指定無形文化財保持者
耳に残る最後の1音までが暖かい
* 来週 沖縄県 三線職人の銘苅春政 さん が 出演されます。
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銘苅春政(三線職人) | 情熱大陸 | MBS 毎日放送 https://t.co/r4fckbwUIX— keiko(ơ ωơ)✧ (@46_keiko) May 9, 2022
銘苅春政の終戦後の生活は?
小学生の時に終戦を迎え、遊び道具やはく下駄も自分で作り、使い捨ての現代とは違い鍋に穴が空けばふさいで工夫して生活していた。
金及び貴金属の加工に必要な送風機・穀物の脱穀に使用する臼・身分を示す簪等も作り、位牌・仏像の彫刻もしたそうです。
何でも細かいことが出来る器用な銘苅さんだったのでしょうね。
銘苅春政、三線職人の道に進むきっかけは?
器用に何でも作ってしまう銘苅さんを見た親戚の三味線屋に、「三味線作りをしてみないか」と声をかけられたのがこの道に入いるきっかけでした。
仕事ができて、ご飯が食べれるのなら何でもやると、自然にこの道に進んだ。
戦中戦後、生活に必要なものは工夫して作ってきた経験が、職人人生を支える基礎となったのでしょう。
昔の人は物が無い時代に育っているので、創意工夫が当たり前だったと思います。
現代は物が溢れて、使い捨てが多く、物を大事に使うことが少なくなっているように感じます。
物や食べ物もそうですが、子供達に大切さを伝えることも大事ですね。
銘苅春政の経歴
終戦後、大工の棟梁である父親の元で働いていて、大工の修業をしていたが、仕事が無い時は農業をして過ごしていた。
24歳から、親戚の三味線屋に7年間住み込みで三線作りの修業にはいる。
この時には職人以外に実演家としての顔も持っていた。
1960年から数々の音楽コンクールに出場して新人賞を受賞しています。
その後31歳で独立、32歳で結婚して自分の店を持ち、30年くらい那覇の安里で三線作りをしていたが母のことが心配で1998年は実家玉城に戻り現在に至る。
銘苅春政、三線職人のこだわり
作品を手掛けたときから完成形が見え、そこに到達するには、ミクロンの世界で、髪の毛より細かく削っていく。
何千本作っても同じものはなく、唯一無二の三線である。
曲線にこだわり、味があり、バランスのある曲がりに削り、持ったり、見たりしていても飽きない綺麗な三線をつくる。
そうしたこだわりが多くの三線奏者に支持されています。
銘苅春政の心得え
- 難しくしているのはいつだって自分の心。怒らないことが健康の秘訣。
- どんな人間でも取柄がある、誰でも失敗はあるのだから他人を許して理解すること。
- 学問はあるが言葉使いが悪い人間は物事を知らない。
- お金だけが人助けではない、言葉を手伝うのも人助け。
- 三味線も人生も、一拍心を休ませて、また見るようにすること。
- 見る目が大事、どんな仕事も加減を知ることが大事。
- 情けを大事にしなさい。
- 良し悪しをしっかり見極めて選択する。この世における全ては自分次第。
まとめ
三線職人の銘苅春政さんは戦後、物の無い時代になんでも自分で器用に生活必需品を作っていたことが、親戚の三味線屋に認められて三線職人の道に入るきっかけになる。
こだわりの三線作りは多くの三線奏者から支持を受けていて、88歳になるが現役で三線を作り続けています。
家には飼った覚えがないのに20匹の猫が住み着いているようで、銘苅さんの優しい人柄が現れていますね!